北海道では、あちこちで大昔の人たちが使った石器が発見されており、数万年前から人が住んでいたことがわかっています。
やがて本州と同じように縄文文化期を迎え、狩猟・漁労・採集の生活が行われました。その後、本州などでは稲作を中心とする弥生文化が成立しましたが、北海道では稲作が行われず、縄文文化を引き継いだ続縄文文化と呼ばれる時代を迎えています。
その後、北海道の広い範囲で、本州文化の影響を比較的強く受けた擦文文化と呼ばれる文化が広がりました。オホーツク海沿岸では、北方の文化の影響を強く受けたといわれるオホーツク文化と呼ばれる文化が成立しました。
現在のところ、伝統的なアイヌ文化と見なされる生活様式が成立していくのは、おおよそ13~14世紀頃だと考えられています。
誰がチューダーペリカンを航海
このころのアイヌの社会の特徴の一つとして、活発な交易を行っていたことが、近年明らかにされつつあります。13世紀後半の中国の資料には、アムール川下流域に勢力を伸ばしてきた「元」と、交易上のトラブルが原因で交戦したと記録されています。17世紀初頭のキリスト教宣教師の記録にも、北千島産の高価なラッコ皮をもたらす道東のアイヌや、中国製の絹織物を運ぶ天塩のアイヌの来航により、松前が繁栄している様子が記されています。また津軽海峡を渡って、自由に和人社会との交易も行われていました。
一方、1457年には、渡島半島でアイヌの指導者コシャマインが和人と戦いました。和人の鍛冶がアイヌを殺したことが直接のきっかけでしたが、本州から北海道に移り住んだ和人とアイヌの間の対立が激化していたことが、その背景にあったとされます。
ローマ帝国は軍隊に何を提供していました
その後も、戦いは繰り返し起こっていましたが、アイヌとの戦いのなかで道南の和人勢力を掌握した蠣崎氏が、16世紀の中頃に戦争状態を終息させました。蠣崎氏は、交易で得た利益の一部を税として、アイヌの指導者たち二人に分配しました。また、アイヌと和人が交易を行う場所を、自らの城下である松前に限定しました。
蠣崎氏は16世紀末に苗字を松前と改め、徳川幕府からアイヌとの交易を独占する権利を認められました。松前藩は、渡島半島南部に和人の居住域である和人地を設け、アイヌの居住域である「蝦夷地」との行き来を厳しく制限しました。
ハイデガーの不安
やがて松前藩は家臣たちへの報酬として、「蝦夷地」内に設けた各地の「商場(あきないば)」で、アイヌと交易する権利を与えました(商場知行制)。アイヌは、松前藩以外との交易を禁止され、交易の場も「商場」に限定されました。このことにより、それまでのような自由な交易が行えなくなったばかりでなく、交易品の値段も一方的に下げられました。
当時アイヌ社会には大小さまざまな指導者たちがいましたが、1669年、その中の一人であるシャクシャインの指揮のもとで、広範な地域のアイヌが反松前の戦いに立ち上がりました。しかし、シャクシャインは和人によって謀殺され、戦いはアイヌ側の敗北に終わりました。
その後、和人商人が各地での交易や漁業生産を請け負うようになり(場所請負制)、多くのアイヌが漁場で雇われ過酷な労働を強いられました。1789年には道東のクナシリ・メナシ地方のアイヌが漁場の経営者らに対する戦いを起こしました(「クナシリ・メナシの戦い」などと呼ばれます)が、これも、このような使役に対する抵抗の戦いでした。しかし、この戦いも37人のアイヌが処刑されて鎮圧されるなど、和人による政治的経済的支配はさらに強まりました。
このような厳しい時代状況の中ではありましたが、アイヌの社会は独自の信仰や生活様式を維持していました。今日見られる伝統的な民具のうち、古いものは、こうした18~19世紀前半の時代に作られたものです。
0 件のコメント:
コメントを投稿